私が日本そのものであり、私は日本であることは慧眼の士の読者は、皆、ご存知の通りである。

私が日本そのものであり、私は日本であることは慧眼の士の読者は、皆、ご存知の通りである。
2016年03月04日
私が日本そのものであり、私は日本であることは慧眼の士の読者は、皆、ご存知の通りである。

思えば、私は、芥川賢治の魂として、その事を書いて登場した。

閖上の皆や、仙台二高の同級生たちは、なぜ、私が、いわば、消息不明の状態で居たかを知らなかった。

それは全く私の個人的な事情ゆえだったから、みんなは知る由もなかったのである。

それは私が本当に小さかった時、背伸びをして、母親のタンスの一番上の引き出しを開けた時に始まった人生でもある。

私の両親は。当時の学徒動員、いわゆる挺身隊、(戦争時、学生や女性が工場で働いた)、

世界のどの国でもあった態様であることは、私が好きだったジェニファー・ジョーンズの主演映画『Since You Went Away』でも描かれているとおり。

そこで知り合い結婚した。

親父も母親も高等小学校を総代として卒業した。

親父は宮城県、母親は群馬県、それもあって、神様は、私に小学校五年生にして高校三年生の頭脳を授けたのだと思う。

読者はご存知のように、国際結婚によって生まれる子供たちの殆どが美男美女なのは、神様からの御褒美なのだと私は言及して来た。

違いを乗り越えることが人間の進歩や平和の第一歩だからである。

NHKの大河ドラマは殆ど観ない私が、前回の「花燃ゆ」だけは、なぜか、殆ど観たのである。明治維新そのものに関わっていた事だったからだろうと思っていたのだが、最後の方は、群馬県が舞台だった。私は、物事とはこういうものだなと驚いたのである。

この結末があったから、私は、全く珍しい事に、殆どの回を観たのだなと思ったのだ。

さて、私の両親が高等小学校を卒業したのは戦争の世紀の最中だった。私の父親の実家は船主の一族だった。漁師の倅に学問は要らない、と祖父が言ったのを私は記憶している。父親は勉強がしたかった。だから祖父を恨みに思っていたのだろう。私が本当に小さかった時に目の前で繰り広げられた修羅場を、私は今でも鮮明に覚えている。

父親は、南洋の激戦地に兵士として参戦した。幸い、生還した。だから私が生まれた。

彼は、公務員試験に合格して、県庁の職員となった。はたからみても、優秀な官僚だったはずだと思う。いざとなれば家を建てる能力も持っていたと思う。

だが彼は、県庁では出世する事はなかった。

確か課長補佐か、係長で県庁マンとしての人生を終えたはずである。

言うまでもない事だが、県庁で出世して行くのは、私の母校や東北大学を卒業した人間たちである。

そのうっ憤が、私が高校三年生の時に初めて知った事実をも作っていたのだろう。それは言ってみれば私の父親は火宅の人だったということなのだが。その事について、私は、何の苦しみも、怒りも、全く何にも感じなかった。

この事は、見せかけのモラリズムの囚人であることにすら気づかないほどに愚かな日本のメディアにとっても、痛切に知るべきことなのである。

人間にとって最も苦しいのは、経済的な苦境であって。臍下三寸の事などでは全くないのである。

子供にとっては鳥のねぐらでもある家が、そのために、抵当に入っていたという事実に、私は、最終的に打ち砕かれた。

京都大学に残って、その両肩で背負って立て」、との恩師の言どおりの人生を歩む道も、この時に打ち砕かれたのである。

この稿続く。