欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と…

欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
2018/09/29

私は高山正之櫻井よしこさんの掉尾を飾る連載コラムを読むために毎週、週刊新潮を購読する。
今週号の連載コラムも彼の博識、見識、検証の見事さ、取材能力の高さを見事に証明している。
司馬遼太郎は彼にとって産経新聞の記者として先輩でもあり身近な存在だったろう。
私は彼の本は自慢じゃないが一冊も読んだことがない…読みたいと思った事がない…が、彼については良く知っていたのである。
何故なら私は実に長い間週刊朝日を定期購読していたから…この週刊誌の看板連載になっていた司馬の「街道を行く」を殆ど毎週読んでいたからである。
同時に、縁らしきものを感じていたのは、東京のホテルホークラのバーで私は二度も彼と遭遇した事があるのである。
私は当時、とても親しかった電通の友人と談笑し、彼は業界関係者との打ち合わせをしていた。
直ぐ近くの席で二度も遭遇したからである。
その私は、こうして仕方なく人類史上最大の図書館であるインターネットに登場してほどなくの2010年に、彼を揶揄した一文を書いた。
それは今週号での高山の見事な批判に通暁するものがあったからだろう。
有数の読書家である友人は司馬遼太郎を斬れるのは、高山とあなたしかいないね、と私を茶化したが。
見出し以外の文中強調は私。
高山正之
明治150年に
産経新聞に入ったころ夕刊に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載が載っていた。
人物の描写にすごく感心したのを覚えている。
70年安保のころは『坂の上の雲』がやはり産経夕刊に連載された。夕刊が届くのが待ち遠しかった。
「新聞は朝日だ」とあのころから馬鹿を言っていた兄も産経に切り替えた。
『坂の上』効果だった。
ただ連載が進んでいくうちにあれほど感心した人物描写が妙に重く、読むのが嫌にさえなってきた。
例えば旅順要塞攻略で多くの戦死者を出した乃木希典について。
無能だの何だのと酷評する。
参謀の伊地知幸介にはもっと凄まじい罵声を浴びせていた。
日本人作家でここまで人を罵る人を知らない。
最近、保阪正康東条英機のことをぼろくそに書いていた。
司馬はそういう日本人らしくない、韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。 
連載が終わったころは羽田の記者クラブにいた。
航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。
東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。 全日空には司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。
二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。
その辺を司馬に直に聞きたいと思っていたらいつの間にか産経から朝日に移って紀行ものを始めていた。
そのころから妙に朝日色が出てきた。
「轢き殺していけ」発言もそのころだ。
司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。
米軍上陸の噂もあった。
その際は佐野から下って水際で食い止めよと大本営参謀が言った。 
しかし道は避難の人で溢れている。
どうするのかという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。
朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。
米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げだしてくるというときに佐野にまだ戦車隊がのんびり居残っていた。
さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。
現に戦車隊仲間のだれもその参謀発言を聞いていない。
なぜ司馬が本多勝一の真似をしたのだろう。
人の描き方も伊地知幸介を超えていった。
島原の紀行では切支丹を弾圧した松倉重政を「日本史の中で彼ほど忌むべき存在はない」と口を極めていた。
根拠はポルトガル船長とオランダ商館長の記録による。
「信徒に蓑を着せて火をつけた」とか。
ただその記録を検証したのだろうか。
検証すればあの当時、欧州で売れていたラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の描写に見事に合致するのを知ったはずだ。 
この黄色い国は生意気にキリスト教を慈悲も知らぬ邪教だと言って締め出した。
仕返しにたっぷり中傷してやるか、とラス・カサスの口真似で残酷日本を描いたと見る方が筋は通る。
朝日はマッカーサー達白人を崇拝して疑うことを知らない。
司馬もそれに感染していったのか。
欧州紀行では徳川慶喜の弟、昭武がベルギーを訪れた折、国王レオポルド2世が「格別の好意を示した」と嬉しそうに描写する。
しかし国王はそのあと日本を植民地にしようと画策する。
「アジアの未開地はきっと欧州の文明を歓迎するだろう」とも言っている。 
結局、国王はコンゴを植民地にして住民の半分の手首を切り落とし、人口の7割を殺した。
そんな国王に批判の一言もない。
司馬は「日本人に厳しく、外人は朝鮮人でも高く評価する」朝日の風土にすっかり馴染んだように見える。
「坂の上に上り立ったあと日本は驕り、破滅に向かった」と司馬史観はいう。
ただその史観には近代日本への憎悪と幼稚なまでの外人崇拝が入り混じる。
明治150年を腐す朝日新聞と妙に似通うのは決して偶然ではない。