ナチズムと言う名の反日教育を続けている全体主義国家である中国と韓国に同調して国連で反日活動を続けている反日日本人。

自分達が、どれほどの無知蒙昧かも知らず、中国・韓国の尻馬に乗って、度々、日本に対して人権勧告を出して来た国連
2023年02月07日

以下は月刊誌Hanada今月号に掲載されている石平さんの連載コラムからである。
彼が本章で明らかにしてくれている日本の歴史は国連で生計を立てている無知蒙昧な人たちにとっては驚天動地の事実であろう。

あろうことか中国に支配されている国連、声だけは大きいが中国と全く同様な国である韓国の言い分を信じて来た世界中の人達は、自分達が、どれほど日本について無知だったかを知って恥じるだろう。

自分達が、どれほどの無知蒙昧かも知らず、中国・韓国の尻馬に乗って、度々、日本に対して人権勧告を出して来た国連。

ナチズムと言う名の反日教育を続けている全体主義国家である中国と韓国に同調して国連で反日活動を続けている反日日本人。
彼らほど罪深い人間達は、そうそういない。

神の摂理である「文明のターンテーブル」の進展を止め、極めて危険な今の世界を作って来たのは彼らである。
神が彼らを許すはずは無く、彼らには天国の門は無く、地獄の閻魔大王が最大の責め苦を用意して待っている。
見出し以外の文中強調は私

中国・朝鮮と違う「とてつもない日本」 (社会編・女性の地位《下》)
前回の本欄は、中国の明・清時代において、女性が実に惨めな社会的立場におかれていたことを概観した。
その暗黒の540年間、漢民族の女性たちは幼少時に、纒足(てんそく)という残酷極まりない悪習によって畸形(きけい)な身体にされてしまう。
そして、成人してからは社会的に隔離され、人間としての自由と権利を奪われる。
結婚後は一生、男性の隷属品(れいぞくひん)として生きていくことを強制され、若くして夫に先に立たれた際は、再婚を許されない。


彼女たちに残された道は二つ。
夫の両親と遺子に奉仕して人生を終えるか、夫への殉死しかない。 
その意味で、明・清時代の中国は野蛮国家と言っても過言ではない。
これとほぼ同時代の朝鮮王朝はどうか。
纒足の習慣こそなかったものの、女性の社会的立場は明・清のそれと大差なかった。
 

それに対して日本では、たとえばほぼ同時代の江戸時代において、女性たちの受ける社会的境遇は明・清のそれとは全く異なっていた。 
まず、日本人女性が纒足によって苦しめられたことはない。
もちろん、江戸時代に限らず、有史以来、日本人は纒足という中国の悪習を完全に拒否してきた。 
明・清時代の中国人女性が社会的隔離によって家という狭い空間に封じ込められ、物見遊山や観劇はもとより、祭りへの参加や友人宅への訪問すら許されないのに対して、江戸時代の日本人女性は普通に地域の祭りに参加できるし、高野山の女人禁制などのわずかな例外を除いて、女性の寺社参拝も自由だった。
 

江戸時代の「国民的行事」であるお伊勢参りにも女性が男性と同じように積極的に参加している様子が、当時の記録や風俗画からも窺える。 
青森県南津軽郡浪岡(なみおか)町(現青森市)の町史執筆委員である中野渡一耕(なかのわたりかずやす)氏によれば、享保19年(1734年)4月12日、弘前藩女鹿沢(めがさわ)村の太田伝兵衛の家族たちの伊勢参宮は藩に許可され、参宮のメンバーは下男・下女以外に、伝兵衛の妻と2人の20代の娘が中心だったことが、当時の文献から分かったという(『広報なみおか』2003年7月1日号)。
 

江戸時代の18世紀、若い娘を含む4人以上の女性が、東北の弘前藩からはるばる伊勢を目指して1000キロ以上の長旅をするような光景は、当時の中国や朝鮮ではまずあり得ないし、同時代の世界各国でもほとんど見られない光景であろう。

教育を受ける権利も、実は江戸時代の女性たちはかなり高い比率でその機会に恵まれていた。
藪田貫(やぶたゆたか)、柳谷慶子(やなぎやけいこ)編『〈江戸〉の人と身分4 身分のなかの女性』(2010年、吉川弘文館)によると、伊勢国飯高(いいたか)郡塚本村で開かれている「寿硯堂(じゅけんどう)」という寺小屋では、寛政4年(1792年)から文政5年(1822年)までの30年間で、男児の入門者が478人に対し、女児は165人である。
教育を受けている女子の比率がこれほど高いことが驚きであろう。

同時代の欧州にも全く劣らず、ましてや当時の中国社会とは比べものにならない、天と地の差がある。 
明・清時代の中国の場合、ごくわずかな例外を除き、女性には一切の教育を受ける機会が与えられていない。
「女子の無学すなわち徳」が、その時代の合言葉の一つであった。
 

夫を亡くしても再婚を一切許さない明・清の中国人女性に比べ、江戸時代の女性は離婚も再婚も、むしろかなり自由だったことが専門家の研究によって明らかになっている。
何しろ、2代将軍の徳川秀忠正室であるお江の方は、天下の御台所となるまでには2度も結婚したという「3婚女」だったのである。

高木侃(ただし)著「三くだり半と縁切寺」(2014年、吉川弘文館)によれば、浅倉有子氏という現代の研究者が江戸時代の大名百家・旗本百家の婚姻状態を分析したところ、全体の離婚率は11.23%、女性を含めた再婚率も58%以上であったことが判明しているという。 

また、江戸時代の離婚は夫の勝手による「専権離婚」ではなく、むしろ夫婦の協議による「協議離婚」が普通であったという。

夫の「専権離婚」の象徴とされている「三くだり半」は実際、離婚相手の女性の再婚を容認するための「再婚免状」である。
そして離婚した場合、女性が自家から持ってきた持参金は夫から返却されたことも多かったという(高木侃著前掲書)。
 

このように江戸時代の女性の多くは、旅する自由も享受できれば教育を受ける機会にも恵まれ、男性といわば対等の立場で離婚・再婚することもできたわけである。
女性の権利と自由の保障という物差しで見ると、明・清時代の中国は単なる前近代的な野蛮国家であったのに対し、江戸時代の日本はまさに見事な文明国家であって、同時代の西洋にも引けをとらない先進国だったと言えよう。

 

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