この様な事を行う和田春樹は日本人であると言うよりも実は韓国人であると考えた方が腑に落ちるだろう。

2019年09月03日
以下は月刊誌WiLLに「原爆を落とした男ヘンリー・スチムソン」と題して掲載された渡辺惣樹氏の論文からである。
渡辺惣樹氏は日米近現代史研究家として戦後の世界で最も素晴らしい仕事をしている人物である。
この論文が今月号の掉尾を飾っているのである。
私が言及し続けている月刊誌4誌が日本国民のみならず世界中の人たちの必読の書である事を余すところなく実証しているのである。
渡辺氏は東京大学経済学部を卒業している。
東大を卒業するという事は氏のような仕事をする事である。
和田春樹の様に日本に深刻な被害を与える人間を養成するために日本国立東京大学は在るのではないのである。
読書家の友人に依れば和田春樹は東大にじっと30年以上いた事だけを誇りにしているような人間であるらしい。

かつて韓国は日韓併合の史実を歪曲しようとして日米欧の著名な学者を集めて3度の国際会議を開催した。
韓国は日韓併合を不法であると歪曲したかったのである。
3度目にハーバード大学で開催した会議で、英国の最高権威の学者から日韓併合は当時の国際社会から完全に認められた合法なものである事、
更には、その事を、今の感情で否定しようとするのは学問的にも全く認められない、と、ぴしゃりと指摘され、韓国側は悄然として会議場を去ったのが歴然たる事実である。
これを和田春樹は当時の菅直人民主党政権日韓併合は不法だったとの談話を出させようとして総数105名の「韓国併合」100年日韓知識人共同声明を出したのである。
この様な事を行う和田春樹は日本人であると言うよりも実は韓国人であると考えた方が腑に落ちるだろう。
或いは、米国におけるアレクシス・ダデンと同様に、間違いなく、韓国のエージェントであると言っても全く過言ではないのである。
この共同声明に大江健三郎も賛同して名を連ねていたから私の彼に対する軽蔑は決定的になったのである。
彼は日本人としておよそ最低の男である。
だから、私は、このような人間にノーベル賞を与えたことについては、国際社会において日本を永久的に政治的な囚人の場において置きたい勢力の強力なバックアップがあったのだろうと推測するのである。
当時、世界の高級リゾートに滞在していて消息不明だったから登場していなかっただけだろうが、大江と同様に朝日新聞を購読、精読して出来上がっている、おためごかしな似非モラリストで、自虐史観の頭脳と、中国や韓国のエージェントであると言っても全く過言ではない言説を続けている村上春樹についても同様である事は言及して来たとおりである。

ヘンリー・スチムソンはいかにして
原爆投下の実務最高責任者になったのかー

五月号まで掲載した渡辺惣樹氏の集中連載「ルーズベルトの『本当の敵』アメリカ第一主義委員会」では、フランクリン・デラノ・ルースベルト(FDR)政権とヨーロッパ戦線非干渉を唱える圧倒的世論を代表して設立された「アメリカ第一主義委員会」との戦いを詳述していただいた。
FDR政権が日本に真珠湾を攻撃させることで、米国の参戦(干渉主義)を抑えこんでいた第一主義委員会を「破壊」した顛末を理解されたことだろう。 
本連載では、四期続いたFDR政権、およびその周辺に巣くった干渉主義者(国際リベラリズム信奉者)の中でも代表的な人物であるヘンリー・スチムソン(陸軍長官)の行状を明らかにしてもらう。

FDRの「武器」として 
筆者は、これまでの著書や先の連載を通じて、戦後に虚構された「ルーズベルト神話」に挑戦してきた。
その作業を通じて、FDRという人物の異常な性格とあの戦争とのかかわりについては一定の理解を得ることができたと考えている。 
FDRはほとんど本を読まなかった。
史書を読んだ形跡もあるが、それらは「戦記」であり、真の意味の歴史書ではない。
蔵書は二万冊を超え、「これから起こるすべての事象への対処法はそうした書物にすでに書かれている」と豪語したヨセフ・スターリンとは大きな違いがあった。 
それでも1940年には米国史上初めての3選を果たし、44年には重篤な病に侵されていることを国民から隠し通し、4選にも成功した。
その理由は、彼には、気の利いたスピーチ力と、アメリカ第一主義委員会を筆頭とした国内の敵(非干渉主義勢力)を叩く「政治屋」としての天性の勘があったからである。
しかし、歴史にも経済にも疎かったFDRにはもう一つの武器があった。
彼の周りに集結した「優秀な」干渉主義者たちである。
その筆頭がスチムソンだった。
広島、長崎への原爆投下を決めた実務上の最高責任者でもあった。 
彼の思想は一面特異ではあるが、当時の米国指導者の世界観の典型とも言える。
スチムソンを知ることはFDR、そして彼に続いたトルーマンの心の内を探ることでもある。
彼を知ることで、あの戦争を「より合理的に解釈する」ことが可能になる。

スチムソン・ドクトリン 
ヘンリー・スチムソンは、米国の対日外交を歪めた政治家の筆頭である。
彼は冒頭に書いたようにFDR政権で陸軍長官に任用されたが、ハーバート・フーバー前政権では政権ナンバーツーである国務長官(1929年3月~1933年3月)を務めていた。満洲事変勃発(1931年9月)から満洲国成立(1932年3月)の時期に当たる。 
支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。
日本の安全保障上、朝鮮あるいは満洲が日本の喉元に突き付けられたヒ首のような存在であることを理解したセオドア・ルーズべルト大統領が進めた政策は、桂・タフト秘密協定(1905年)によって結実した。
その後に続いた同協定を追認する高平・ルート協定(1908年)も石井・ランシング協定(1917年)も、日本の安全保障上における満洲の重要性をアメリカが理解し、実質的に日本の満洲進出を了解(容認)したものだった。
従って、満洲事変から満洲国建国までの日本外交は、この3つの日米合意の存在を前提に解釈されなくてはならない。 しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。
ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を批難した。
そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。
その結果、フーバー政権は満洲国を承認しないと決めた。
スチムソンには満洲国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。 
彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。
退任直前の1933年初めには、次期大統領に決定していたFDRの私邸を訪れスチムソン・ドクトリンの継続を訴え、それに成功した。 
日米間には、「日本の対満洲(および朝鮮)政策」について「阿吽の呼吸」による共通理解があった。
その呼吸を乱し、日米戦争への道筋を立てた人物がスチムソンだったのである。 

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