2023年6月1日
以下は本日発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
忘恩のユダヤ人
憲法記念日の天声人語はべアテ・シロタを取り上げていた。
彼女は新憲法草案に「女性差別」を禁じる1項を加え、結婚は「両性の合意に基づき妻は夫と同じ権利を持つ」と明記して「不幸な日本の女たちを救った」と紹介する。
このコラムの悪いところは何の取材もしないことだ。
このくだりもベアテの自伝からそっくり引用した。
彼女の評判についても、GHQが日本の新聞に一切の真実を書かせなかったころに押し付けたイメージをただなぞっているだけだ。
しかし戦後70年の間には多くの疑問も生まれた。
天声人語はそういう新事実に一切触れていない。
ホントはどんな女なのか。
ベアテはユダヤ系ウクライナ人の音楽家レオ・シロタの娘として1923年に生まれた。
ウクライナのユダヤ人と言えば「屋根の上のバイオリン弾き」が思い浮ぶ。
スラブ人による略奪と虐殺の嵐、ポグロムに耐えきれず国を逃げ出した牛乳屋テヴィエ家の物語だ。
シロタ家も同じ。
彼らはウィーンに逃れるが、そこで待っていたのはナチの脅威だった。
安住の地を求めるシロタは満洲で山田耕筰に会ってユダヤ人差別のない日本へ移り住むことを決めた。
このときベアテは5歳。
白人アシュケナージを鼻にかけ、1939年中学を出ると「米国の高校に留学したい」と駄々をこねた。
しかし当時のユダヤ人の環境はもっと悪化していた。
その前年、ナチのユダヤ人迫害を心配した欧米諸国の代表がユダヤ人難民の受け入れについて仏エビアンで会議を開いた。
ただ米大統領ルーズベルト(FDR)はごく冷淡で会議には全権代表すら送らなかった。
会議もその雰囲気を受け、受け入れ国はゼロに終わった。
半年後、ナチの弾圧を逃れようと937人のユダヤ人が独客船セントルイス号でハンブルクからキューバに向かった。
しかし米保護国のキューバは土壇場で上陸を拒んだ。
FDRの意向だった。
FDRは「母校ハーバード大からユダヤ人学生を締め出そうとまでした」(米史家R・メドフ)ほどのユダヤ人嫌いだった。
行き場を失ったセントルイス号は欧州に戻る。
乗客は仏、蘭などに上陸を赦されたが、そこもやがてナチに占領され、乗客の多くはアウシュビッツに送られて殺された。
FDRの偏見は強かった。
そういう時期、ベアテは米国に行きたいと言った。
関係筋はFDRのいる限り諦めろと言った。
ただレオと娘にはいい知人がいた。
近所に住む元首相の広田弘毅だ。
彼はベアテをとても可愛がっていた。
そして大国日本の大政治家のおかげで彼女は奇跡的にビザを得て、オークランドのミルズ・カレッジヘ留学が決まった。
2年後、日米は開戦する。
べアテはあれほど嫌った日本人と日本語に通暁していたことが幸いし米政府の戦争情報局に入れた。
戦後はGHQ民政局の一員として父母の待つ日本に戻ってきた。
最初の仕事は日本を滅ぼすためのマッカーサー憲法草案作りだった。
高校しか出ていない、無教養な女には人権の項目が任された。
何も思いつかないからソ連の憲法のその辺をコピペして1週間で作り上げた。
滅びの憲法だから、その程度の中身でも十分だった。
同じ時期、市谷では東京裁判が始まり、彼女に留学の機会を作ってくれた大恩人、広田弘毅がA級戦犯として裁かれていた。
彼女が真人間なら助命を語っただろう。
父レオも国際社会が背を向ける中で多くのユダヤ人を受け入れた日本人の高い人道性を法廷で証言しただろう。
しかし日本に救われた父娘は最後まで感謝の言葉もなく、広田の死刑にも目をつぶったままだった。
その代わりベアテは「日本は女の権利を認めない後進国」と生涯触れ歩いた。
恩を忘れたユダヤ人一家を偽りで飾り立てて何の意味があるのか。