最近、日経新聞の、このコーナーは全く見ていなかったのだけれど、昨日、友人が教えてくれた。

最近、日経新聞の、このコーナーは全く見ていなかったのだけれど
2020年10月05日

最近、日経新聞の、このコーナーは全く見ていなかったのだけれど、昨日、友人が教えてくれた。
「あなたが愛する母校の先輩の一人が出ているよ。多分、明日ぐらいに、仙台二高の名前が出るんじゃない。」
日曜日、見てみたら、その通りだった。
当然の事ながら彼が書いている光景は、そっくりそのまま、私が過ごした母校、及び、仙台の光景である。
ただ、不幸な家庭の問題を抱えていた私は、他の女子高生と話をした事が一度もない事や、
彼が角五郎丁の自宅から母校に通った道は、私も通った道なのだが、その態様もまた全く違っていた。
私の高校時代は、家からの「逃亡」に費やされてしまったと言っても過言ではない。
とにかく、勉強どころではなかったのである。
私は、竹馬の友の次兄にお願いして、軽トラックに机と本と布団袋だけを積んでもらって、仙台一の繁華街である一番町の裏に在ったアパートに逃亡した。暑い盛りの時である。窓もないような部屋で、暑くて勉強どころではなく、相当に参っていた時、仙台一と言っても過言ではない資産家のお宅が、住み込みの家庭教師を求めている、という話を校内で聞いた。
私は、即座に手を上げた。
用務員室からリアカーを借り、本当の親友だった二人の手助けを得て、一番町から青葉通りの大橋を渡り、角五郎丁まで机と本と布団袋を運んだ。
夏の暑い盛りの大変な道程で、彼らには本当に迷惑をかけた。
そんな次第だったから、私は先輩とは違って、高校生時分に、ただの一度も他の女子高生と話した事がなかったのである。
同じ名取市出身の1年先輩に、ある日、学食で告げられた言葉は、だから本当に驚きだった。
「〇〇、お前は、向かいの尚絅女学院でニ高の〇〇って有名だぞ、知ってるか…」
〇〇というのは、当時、日本中の家庭が夕食時に見ていたNHKの連続ドラマの主人公役の俳優の事で、確かに、彼は私とよく似ていた。
高校時代に、女性と話をしたこともないまま、以後の人生を歩んだがゆえに、私には女性の知己が少ないのである。
これは後年、大きなマイナスとなった。
折角、ニ高きっての紅顔の美少年として女学生の間で騒がれていたのだから、普通なら大いに青春を謳歌していたところだろう。
そういえば、竹馬の友が日産自動車に就職して住んでいた川口のアパートに、少しの間、居候していた事があった。
そこの大家の、江戸っ子のお婆さんに、三越まで買い物に付き合わされた時の事である。
美味しい昼食を御馳走になっていた時、生粋の江戸弁で、「いい顔をしているんだから、京大に行くのなんか止めて、俳優座に行きなよ」と言われて返答に困った事を、ありありと覚えている。
先輩は、角五郎丁の自宅から不必要な悩みや苦しみなどとは無縁に澱橋を歩いてニ高に通学していたわけである。
一方、私は、心の中に、どうしようもない苦しみを抱えて、毎朝、通っていた澱橋のたもとにある女学校の生徒達からアイドル扱いされていた事も全く知らなかった。
学食で聞かされた後も、女学生に気が向くことは全くなかった。
私の履歴書
小野寺 正
高校は自宅から歩いて通える男子校の仙台二高に進学した。
中学時代から音響・放送機材に触れるのが魅力で放送委員会に憧れ、二高でも迷わず放送委員会の門をたたいた。
昼食時の校内放送ではディスクジョッキーのまね事をした。
毎年5月に開かれる運動会では校庭の桜の木に卜ランペットスピーカーを据え付けるのだが、花が散ったばかりの桜は毛虫だらけで往生した記憶がある。
一番の思い出は、高校の乏しい予算ではLPレコードを年に数枚しか買えないので、1年上の先輩が市内の名画座の経営者と交渉して、上映中の映画のサウンドトラックを録音させてもらったことだ。
オープンリール式の重いレコーダーを高校から映画館まで運び込み、映写室で録音する。
そのおかけでエルヴィス・プレスリーコニー・フランシスの映画をタダでたくさん見ることができた。
そのうえ録音させてもらった映画音楽を校内放送で流す。
著作権に口うるさい今なら考えられないことだが、何ともおおらかな時代だった。 
仙台一高との定期戦も懐かしい。
一高と二高は古くからの名門ライバル校で毎年1回、野球やその他の球技で対抗戦を実施した。
市民にもたくさんファンがいた。
野球の試合は多数の観客で球場が埋め尽くされ、「杜の都の旱慶戦」の異名をとるほどだった。 
定期戦の前夜には仙台一の繁華街であった一番町まで応援団を先頭に練り歩き、街は祝祭気分に覆われた。
今だから言えるが、アルコールを入れた飲み物を高校生の私たちにこっそり振る舞ってくれる喫茶店もあった。 
女子校との交流もあった。
仙台で一番のお嬢様学校として知られた宮城学院高等学校の放送部に共同で番組をつくろうと持ちかけ、一緒に活動した。
どんな番組をつくったかは忘れてしまったが、今でいう合コン的なことをやって、楽しく盛り上がったのはいい思い出だ。 
高校3年生になると進路に応じて文系と理系のクラスに別れ、私は迷うことなく理系を選択した。その時のクラスメートの1人が、後にソニーの社長や産業技術総合研究所の理事長を歴任した中鉢良治さんだ。 
少し話は飛ぶが、私がKDDIの社長に就任したのは2001年6月。
当時はネットバブルがはじけた直後で、情報通信産業全般に猛烈な逆風が吹いていた。
加えて同年9月には米同時テロが発生し、社会の混乱に拍車がかかった。
KDDI自身も複数の会社の再編統合で発足したばかりの時期。
各出身母体ごとの人脈やカルチャーが色濃く残り、内部でギクシャクすることも少なくなかった。 
中鉢さんがソニーの社長に就任した05年もそれに劣らずたいへんな時代だったようだ。
90年代のソニーは世間からもてはやされたスター経営者が登場したが、その陰で屋台骨のエレクトロニクスの競争力が徐々にむしばまれ、株式市場も厳しい視線を注ぐようになった。
そんな窮地に突然、社長に引き上げられたのが中鉢さんだ。 
その頃「なぜか社長をやることになった。経験者としてアドバイスをくれないか」と中鉢さんから電話があった。
「苦労するのが我々東北人の役回り。開き直ってやればいい」と答え、2人で笑った覚えがある。     
(KDDI相談役)