ところが江戸の町はとりわけ広いのに、ヨーロッパの都会の歩道で巡査が必死になって

ところが江戸の町はとりわけ広いのに、ヨーロッパの都会の歩道で巡査が必死になって
2018/07/27

今日、ご紹介した高山正之の…今週号も見事な「変見自在」の中で…「それは昔スイス公使アンベールが言っていた。」、と、突然、出て来る箇所があります。

私は、先ず彼の名前の正確な綴りを検索したのですが、一段落した今、ちょっと彼の事を検索してみたところ、以下の労作を発見しました。
それにしてもジャーナリストを職業とした高山正之の博覧強記ぶりには世界中の人たちが驚嘆するでしょう。
 東北関東大震災については、海外でも大きく報道されて、被災地支援の輪が広がっています。大変ありがたいことだと思います。
 この大震災の様子の報道の中で、被災地の報道とともに海外メデアが取り上げて称賛しているのが、大震災にあいながらも、略奪や暴動が起こらない日本人の秩序の良さや治安の良さです。
 テレビでは、支援物資を受け取るにも整然と並んでまっていたり、電話の順番がくるのを長時間並んでいる姿が報道されました。
 また、自分の悲しさやつらさを表に出さず、それを懸命にこらえ、支援する人たちへのお礼をいう姿も報道されます。
 こうした姿が、海外の人々の心を打っていると思います。もちろん私たちの心をうつのは当然のことです。

 この日本人の秩序の良さは、昔から日本人が培ってきた美徳だろうと思います。
 江戸時代でも、日本を訪れた外国人は日本の治安の良さを称賛してくれています。
 それは幕末にスイスと日本との間に修好通商条約を結ぶため、主席全権として来日した
アンベールです。

【スイス遣日使節団長アンベール】 

c0187004_22135127.jpg
 エメェ・アンベールは、文政2(1819)年にスイスで生まれました。c0187004_22135127.jpg高等学校の教師の後、嘉永元(1848)年に臨時政府の書記、憲法議会の議員となり、さらに州内閣の文部大臣を務めました。
 スイス政府は日本との国交を開くために先遣としてスイス通商調査派遣隊を日本に派遣していましたが、幕府がスイスと条約締結の用意があることを知り、アンベールを特名全権公使に任命し、アンベールを来日させることにしました。
 文久3年(1863)、アンベールは、スイスと日本との間に修好通商条約を結ぶため、主席全権として来日しました。
 幕府との交渉の末、江戸高輪伊皿子のオランダ公使館のある長応寺で条約に調印したのは、年も押し詰まった12月(1864年2月)のことでした。 
 アンベールは条約締結交渉の合間を利用して、江戸のほか、横浜、鎌倉、京都を旅行し、日本の歴史、地理、宗教、社会制度、政治機構、風俗習慣などを、旺盛な好奇心で観察、調査し、のちに日本での見聞記をまとめ、「日本図絵「(1870年刊。日本語訳は高橋邦太郎訳」アンベール幕末日本図絵」) を刊行しました。この「日本図絵」は今は刊行されていません。講談社学術文庫「絵で見る幕末日本」(右写真)として刊行されています。

【アンベールの賞賛】 

c0187004_1111911.jpg
 この「日本図絵」の中で、アンベールは、江戸の治安の良さを賞賛していると青木宏一郎氏が「幕末・維新江戸庶民の楽しみ」の中で次のように書いています。
c0187004_1111911.jpg 「アンベールが最も感心していることは江戸の治安の良さである。
  『広場や遊歩道や大通りが見事に管理され市場や人々の交遊が立派に秩序だっている』のに感心し、(中略)、大川(隅田川)について特に『毎夜ここで落ち合う多勢のそぞろ歩きの人たちは、ごくささいなことでも、事故はいっさい起こさない。ところが江戸の町はとりわけ広いのに、ヨーロッパの都会の歩道で巡査が必死になって守らせようとしている交通の規律も、日本人がまったく見事に実践しているのである』と手放しの賞めようである。」

 電車の運行本数が少なくなっているため、通勤電車は大混雑しています。しかし、身動きできないよう状態の中でも、大声をだしたり、怒号が飛び交うことがまったくありません。
 大きな声が出るのは乗客が降りる際の「降ります」だけです。この声が聞こえると、大勢の人が、その人が降りられるように、隙間をつくってくれます。

 こんな日本人を海外の人たちは驚異の目でみてくれています。
 被災地の惨状が海外に発信されるだけでなく、日本人の素晴らしさも私たちが意識しないうちに海外に発信されています。みんなで頑張りましょう。『ガンバレ!ニッポン』