中韓の反日に汚される世界遺産…虚妄の「強制連行」論が隠した在日の過去…強制連行の神話はなぜ生まれたか…戦後に玄界灘を渡ってきた人々 

まともな論文を掲載するスペースが更に無いのだから、真実を伝えている訳はないのである。
2015年10月07日
今月号の月刊誌「正論」にも、朝日や毎日を購読し、テレビ朝日やTBSの報道番組だけを観て生きている人たちには、全く分からない真実が満載されている。
それでいて料金は780円である。
一方、限りある紙面の半分ほどを、スポーツ紙と同様な広告で埋め尽くしている朝日は、それでいながら、料金は月額約5,000円である。

以下はp178~p187に渡る、朝鮮問題研究家、阿部南牛さんの労作からである。

安部南牛氏 昭和14(1939)年、福岡県生まれ。工学院大学卒業。旧通産省工業技術院、化学技術研究所主任研究官を歴任。2000年に定年後、2003年まで化学技術戦略推進機構っくば管理事務所長。専攻は鉱工害処理技術。著書に『筑波研究学園年の概成』、共著に『北朝鮮の軍事工業化』『戦後日朝関係の研究』。現在は「対共産圏貿易資料館」の設立準備中。

*彼の労作は、私の論説の正しさも100%証明していることに、読者は気付くはずだ。タイトル以外の黒字強調は私。

中韓反日に汚される世界遺産
虚妄の「強制連行」論が隠した在日の過去
強制連行の神話はなぜ生まれたか
戦後に玄界灘を渡ってきた人々 

日韓問の歴史問題として、日本軍慰安婦に続いて「戦時徴用」が浮上している。
かつては「強制連行」と呼ばれ、「帝国日本の蛮行」として記憶されてきた問題だ。
その実態が解明されて「蛮行」のイメージが否定されたため、現在では「強制連行」と呼ぶ人は減り、「強制労働」などと呼ばれることも多くなっている。
いずれにせよ、戦時徴用が日韓間の火種となるのは、この「強制連行=蛮行」論の記憶が根強いからである。 
昭和43(1968)年、静岡県内のスナックで、在日韓国人2世、金嬉老が借金取りの暴力団員ら2人を射殺し、同県寸又峡温泉の旅館に立て籠もった。
金が、人質解放の条件として在日韓国・朝鮮人に差別発言をした現職警察官の謝罪を要求すると、立て籠もり中から「朝鮮人差別問題」とからめてマスコミによって大々的に取り上げられた。
国内では運動団体や知識者と称する面々が金嬉老の支援を始めた。
そして、金嬉老は二人をライフル銃で殺めたにもかかわらず裁判では極刑を免れた。 
事件は、その後の在日朝鮮人運動に大きな影響を与えた。
その最大のものは「在日朝鮮人はずーっと差別されてきた。そして、その差別の根源には戦前の日本による『強制連行』があったのだ」という神話が作りあげられたことだ。
アフリカ大陸から奴隷としてアメリカへ連れてこられた黒人たちと同じように、日本に連れてこられたというイメージの宣伝である。 

金嬉老事件の背景は本当に「差別問題」だったのだろうか。
一般に日本人が朝鮮人を蔑視してきたように言われてきたが、大日本帝国(以下帝国)解体後の戦後日本では、米占領軍(連合国軍総司令部=GHQ)が朝鮮人優遇政策を執った。
日本人よりも朝鮮人を優遇することで民族間対立を煽り、日本人の占領政策に対する反発への防波堤に使い、軍事占領を円滑に統治しようとしたのだ。 
これは西欧諸国の植民地経営によく見られる、民族間対立を助長させることで統治を円滑に図る彼らの常套手段である。
私は、この煽られた「民族間摩擦」が、金嬉老の言い分を助長したと考えている。 
帝国解体時、それまで約200万人近くいた日本在住の朝鮮人の内、ほぼ160万人が帰った。
昭和21(1946)年末時点で大凡40万人しか在日朝鮮人はいなかった。
それが北朝鮮への「帰国運動(帰還事業)」が始まった昭和34(1959)年には60万人に増えた。
むろん、これは表に出た数字である。
民族間の対立を助長させるGHQの朝鮮人優遇政策は、朝鮮半島への帰国を目指した朝鮮人の足止めを招くどころか、むしろ逆流するきっかけを作ったのだ。 
僅かな期間で人口が1.5倍に増えるなどあり得ない。
この間、密入国で摘発された者は約6万人である。
6万人の3倍は逮捕されなかった密入国者がいたことが指摘されている。
約20万人であり、60万人から40万人を引けば20万人と数字的には合っている。
しかし、この「在日朝鮮人60万人の内、20万人の密入国者」が持つ意味は、これまで余り問題にされて来なかった。

命名者も認めた「強制連行」の虚構 
それも、在日朝鮮人は「強制連行」されてきた人々だというイメージが定着しているからだ。
それには、在日朝鮮人歴史家・朴慶植の著作、『太平洋戦争中における朝鮮人労働者強制連行について』(1962年)の刊行が契機となっている。 
ここに使われている「強制連行」という言葉だが、朴慶植は「中国人の強制連行の調査に関する資料」が、岩波書店の雑誌『世界』の1960年5月号に掲載されたことに刺激されたと述べている。
関東大震災時に於ける朝鮮人虐殺の研究者、山田昭次はこれを受け、「強制連行」は朴慶槓の造語ではなく、以前の中国人強制連行という言葉が知られていたから借用したのだろうと指摘し、「物理的暴力にしか頼れなかった占領地(中国)からの強制連行と皇民化教育のようなイデオロギーによる強制も駆使した植民地からのそれとの違いを認識なされなかった」(『追想 朴慶植』)と、朴慶植の借用を批判した。 
朴慶植の『太平洋戦争中における朝鮮人労働者強制連行について』は朝鮮大学校から刊行された。
この時に使われた「強制連行」という言葉を、在日朝鮮人作家の金達寿は物理的強制(暴力を伴った)で行われた中国人の日本への連行に、朝鮮人の自主的渡航を重ね合わせた点を指して、あれは朴慶植の造語だと断定した。
一方、朴慶植は最晩年に「身体の拘束による巡行だけが強制連行じゃない」(『追想 朴慶植』)と、山田に強弁したそうである。 
この朴慶植の言葉は、朝鮮人の「強制連行」を造語した朴慶植本人が、物理的暴力で日本へ渡ってきた朝鮮人はいないことを浮き彫りにしている。
皇民化イデオロギー」による自らの意志での渡航が「強制連行」ならば、朝鮮総聯が「北朝鮮は地上の楽園」などと宣伝した帰国運動に影響を受けて北朝鮮へ渡った10万人も「強制連行」の被害者となる。 
朴慶植は、自らを「強制連行されてきた朝鮮人ではない」と述べていたが、1965年には『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を刊行する。
今では朴慶植のこの著作が「強制連行」を日本社会に定着させた、と受け取られている。
ところで先ほど述べた20万人の密入国者は何処に消えたのであろうか? 
少なくとも、密入国者の存在は70年代半ばまでは、広く知られていた。
北朝鮮への帰国運動で10万人が海を渡って行く一方で密入国者は増えており、阪神地域の産業を底辺で支える労働力として期待されていた存在でもあった。 
多くの在日朝鮮人密入国者であったことを、多くの日本人は今では忘れている。
その過程に金嬉老事件がある。
それは金嬉老や事件に対して「在日朝鮮人は差別されてきたのだから、罪一等減じるべきだ」といった主張が繰り広げられるのを受けた朝鮮総聯の運動があったから、とも言える。 
その運動とは、朝鮮総聯が日本の“現代史の「暗部」である強制連行の実態解明”を推進する「朝鮮人強制連行真相調査団」を結成したことである。
この運動は、昭和48(1973)年に北海道と九州で始まり、贖罪史観に囚われた日本人学者と市民運動家などの協力も重なって多くの調査報告がだされている。 
そして朝鮮総聯は結成50周年を記念した『朝鮮総聯』(在日本朝鮮人総聯合会、2005年刊)では、「朝鮮人はなぜ日本に住んでいるのか」の説明に「強制連行」を強調するようになった(『朝鮮総聯』)が、朝鮮総聯の幹部にも密入国者がいたことは常識である。

「悪い日本人」なら殺しても許されるのか? 
金嬉老事件では、「金嬉老の訴えに衝撃を受けた」という進歩的知識人らが動きだす。
先ごろ亡くなった、「負ける側にいたい」という哲学者・鶴見俊輔もその一人であった。
但し、ライフル銃で人を殺せる男が「負ける側」の人なのか、極めて疑問であった。 
金嬉老を考える会」には、当時進歩的文化人と目されていた、荒正人、井上省蔵、杉浦明平、関寛治、中島健蔵、旗田巍、針生一郎などが参加している。 
フランス文学者・鈴木道彦(獨協大学名誉教授)の『金嬉老の法定陳述』百二書房、1970年刊)の「あとがき」の記録に拠れば、金嬉老公判対策委員会の世話人に、大沢真一郎、梶村秀樹、久保寛、佐藤勝巳、里見実、鈴木道彦、三橋修、宮田節子の8人が就いている。
この内の3人、梶村秀樹、佐藤勝巳、宮田節子には、目白の日本朝鮮研究所でお目に掛かっている。 

この金嬉老が起こした殺人事件を福田恆存、会田雄二、柴田錬三郎などは厳しい目で捉え、批判した。
当時、金嬉老に対して批判的なコメントをする日本人は少数だった。
福田ら3人は、金嬉老事件を真面目に受け止めず、茶化したり、歪めたりしていると非難された。
金嬉老の殺人事件を擁護する根本的発想は次の言葉に象徴される。 
「なるほど、金嬉老は2人の人物を殺害した。そしてあなたは、殺人を絶対的な悪であると言われる。それでは、無数の朝鮮人の命を奪った日本人の行為はどうなのか?」(『金嬉老の法定陳述』の「あとがき」)この引用文にある「あなた」は、恐らく福田恆存、会田雄二、柴田錬三郎らを指しているのだろう。
鈴木は、「あなた」が「それは戦前の話であり、前の世代の行った行為だ。私かその責任を負ういわれは何もない」と回答すると予想したうえで、次のように反論する。 
「ところが私は、その資格があなたにも与えられていないと思う。それというのも、われわれ自身がこの陰惨な歴史を受けつぎ、これを再生産している当の者だからだ」 
鈴木道彦は1929年生まれだから敗戦直後の記憶、朝鮮人が暴れていた記憶も持っていた筈だ。
金嬉老寸又峡で糾弾したのは警察官の「てめえら朝鮮人は日本に来て、口クなことをしないで!」という差別的言動だが、それは警察官の人生から吐き出された言葉であった。
それに怒る金嬉老の人生に重なる言葉でもあった。
金嬉老が日本人2人を殺害して寸又峡に立て籠もるまでは、戦前は窃盗で少年保護院、戦後は窃盗・詐欺・強盗を繰り返し、刑務所と日本の社会を往復している。
それ故に警察官の言葉が堪えたのであろう。
その一方でそういう言葉を吐く警察官には、敗戦直後から傍若無人に振る舞った朝鮮人に対し、治安維持の立場から取り締まる人生を歩んでいる。 
金嬉老を支援した進歩的知識人は、対峙して日本の治安を守ってきた警察官、いきなり射殺された2人の日本人への「労り」の気持ちはなかったのだろうか?
金貸しをして催促した暴力団員だから殺されても仕方ない、というのだろうか? 
殺された2人のうち1人は暴力団構成員ではなかったという。
この稿続く