安倍元首相死去1年にあたり
自立自尊の魂呼び覚ました宰相
元内閣官房副長官補、同志社大特別客員教授・兼原信克
安倍晋三元首相が亡くなって暫(しばら)くして東京・富ケ谷の自宅に伺い、御霊前に手を合わせた。
紫紺の布に包まれた骨壺を前にして、「ああ、こんなに小さくなってしまわれた」と思うと涙がこぼれた。
大輪の胡蝶蘭が揺れる後ろの壁には、祖父、岸信介氏が晩年に千枚以上写し続けたという青地に金泥の般若心経が掛けられていた。
かけがえのない人を失った。
その思いがいまだに胸の奥に疼(うず)く。
国の形がみるみる変わった
新しい日本を作ろうとした人だった。
激しい人だった。
優しい人だった。
そして無私の人だった。
だから首相官邸の全員が燃えた。
とことんこの人についていく。
皆がそう思った。
頂点の一人の意思が、国全体を動かしていった。
国の形がみるみる変わっていった。
私たちの見上げる空をぐるりと回して見せた回天の首相だった。
身をもって新しい日本人のアイデンティティを示した。
それまでの日本人は、安全保障では米国に寄りかかり、社会保障では将来の世代にツケを回し、敗戦国のコンプレックスを引きずり、東西冷戦が引き起こした思想的分断に苦しんでいた。
本当の自分を見失い、生きる力が萎えていた。
戦後70年談話を発してこれからの日本を担う若い人々に誇りと自信を取り戻した。日本は自由主義社会のリーダーの一員である。
世界史の波頭に立つ国である。
それが信念だった。
そのためには西側諸国がグローバルサウスの人たちとも共有できる世界史のナラティブ(語り)を持たねばならない。
世界は20世紀の100年をかけて倫理的に成熟してきた。
戦争が否定された。
人種差別をはじめとするあらゆる差別が否定された。
アジア、アフリカに広がっていた植民地支配は引きずり倒された。
ガンジーやキング牧師のように殉教した聖人が出た。
20世紀の末、ソ連を中心とした東欧の共産主義独裁体制が次々と崩落した。
夥(おびただ)しい有名無名の人命を犠牲にして今日の自由主義社会がある。
世界中の人々を突き動かしてきたのは、単純な真理である。
人は皆、生まれながらに平等である。
人は自分たちの命と、自由と、幸せを守る権利を有する。
そのために政府を立てる。
政府の正統性は人々の同意に基づく。
このアメリカ独立宣言の最初の数行は、天意は民意であるという東洋思想の神髄と何ら変わるところがない。
「世界は20世紀の100年をかけて変わったのだ」というのが、歴史問題を語る時の安倍氏の口癖だった。
自由主義社会は21世紀になってようやく地球的規模で姿を現した。
日本はそのリーダーになる。
この決意が「自由で開かれたインド太平洋」構想を生み、「クアッド」構想を生み、日本を世界政治の高みに押し上げた。
1980年代のODA(政府開発援助)外交、90年代の自衛隊による国際貢献外交、そして21世紀の価値観外交によって、日本は国際社会のリーダーの座に返り咲いた。
金だけではない。
軍事力だけでもない。
信念とリーダーシップが備わった外交を展開するようになったからである。
安倍氏はまた、日本人の中に眠る自立自尊の武士魂を呼び覚ました。
米国に寄りかかるのではない。
自分の国は自分で守る。
足らざるを補うための対米同盟だ。
自立せよ。
そして国家としての生存本能を呼び覚ませ。
この信念が、日本を深い太平の眠りから揺り起こした。
ますます独裁色を強める習近平氏の中国はすでに、日本の3倍の経済規模を誇り、自由の島となった台湾の武力併合の準備に余念がない。
脅威は突然、やってくる。
引き継がれるもの
首相として動きは速かった。
国家安全保障会議(NSC)の設置、国家安全保障戦略の策定、憲法解釈の変更と集団的自衛権行使の是認、特定秘密保護法の制定等が矢継ぎ早に進んだ。
防衛費も8年の在任中に補正予算を加え1兆円以上の増額を果たした。
同時に消費税も2度上げて10兆円以上の税収を確保した。
退任後も活発な発言が続いた。
台湾有事は日本有事である。
米国との核共有を国民的議論の俎上(そじょう)に載せよ。
目の前にある危機に反応しようとしない日本人を前に、どれほど焦燥されたことだろう。
熱のこもった呼びかけに、独りよがりの平和主義に酔いしれていた日本人の生存本能が、深く暗い淀(よど)みの底から少しずつ目覚め始めた。
安倍政権終盤では、米中大国間競争のあおりを受け、戦後、一貫して軍事を忌避し続けてきた経済官庁や経済界にも安全保障の関心が芽生え始めた。
後を襲った菅義偉、岸田文雄両首相は、数々の経済安全保障法制を制定した。
今は防衛費GDP2%へと、更なる高みへ進もうとしている。
国家は憂患に生き、安逸に死ぬ(孟子)。
安倍氏によって国としての生存本能に目覚めた日本は今、ようやく水から上がった獅子のように身震いして見える。
(かねはら のぶかつ)
2023 on May, in Osaka