かようにして被害の最も少なかった国が、最も残酷な処刑を行なったのである。

2020/6/20
月刊誌正論今月号で読み残している箇所がたくさんあった。
今朝、平川祐弘さんの連載(長文である)を読んでいた時に、これは今の中国そのものだな、と思った箇所があった。
最後に平川さんがまとめて掲載している註の中に、私の思いが正鵠を射ていた事を証明する箇所があった。
本稿では、それらの箇所と、日本国民全員が知るべき箇所を抜粋してご紹介する。
平川さんの論文は日本国民のみならず世界中の人たちが必読である。

太平洋戦争か大東亜戦争か 
だが、日本の圧倒的優勢はそれまでだった。
1945(昭和20)年8月の敗戦。
そしてそれに引き続くアメリカ軍の日本占領。
しばらくすると「大東亜戦争」の名は消され「太平洋戦争」となった。
その変化の背後に占領軍の意向が働いていることは中学二年生にもわかった。
「太平洋戦争」の呼び方はアメリカ側でthe Pacific Warとか War in the Pacificと呼ぶからでもあるが、日本人に「大東亜戦争」Greater East Asia Warとそのままいわせておくと、日本が大東亜解放のために戦った、という義戦の面が表に出る。
それでは連合国側、特に植民地を戦前のまま維持したい諸国にとっては、都合が悪い。
それで「大東亜戦争」という用語の使用を禁じたのである。 
日本軍は南方諸地域で植民地支配者である白人列強を一度は打破した。
米英仏蘭の諸国は、傷つけられた権威を回復するためにも、現地人への見せしめのためにも、敗れた日本軍の将兵戦争犯罪人に仕立てねばならなかった。
シンガポールを陥落させた山下奉文将軍を開戦記念日の12月7日に絞首刑に処すと判決し、マニラを陥落させた本間雅晴将軍を銃殺刑に処すとしたのは、罪名はなにであれ、復讐裁判の側面が露骨に出たといえよう。
その非はライシャワー博士なども認めている。
註2 
ローレンス・テイラー『将軍の裁判 マッカーサーの復讐』立風書房、1982、原題はA Trial of Generals。 
日本語版の裏表紙にあるライシャワーの言葉を抄すると、次の通り。……軍事法廷で裁かれた山下および本間と並んで、本書ではマッカーサー将軍も裁かれている。
二人の日本人将軍が、いずれも率直で、正直で、高貴でさえあったことが明らかにされている。
そしてマッカーサーについては、その二重人格の陰の部分が浮き彫りにされ、彼がいかに狭量で、もったいぶった、そして復譬心にとらわれた人間であったかが示されている。
本書では また、アメリカの正義(裁判)も裁かれているのである。
そして最終的に敗れ去ったのはアメリカの正義であったことを証明している。

南方各地で多くの日本人が処刑された間は、8月15日以後もまだ戦争は続いていたのである。
―そしてこの戦後の戦争で、一部日本人の心ない態度が表に出た。
本間中将の令嬢が助命運動に署名を求めて街頭に立った。
すると一新聞にそんな振舞に出た令嬢を非難する投書が出たのである。

インドネシア独立とオランダ 
1942(昭和17)年3月1日に日本軍がジャワ島に上陸するや、オランダ軍は実質的な戦闘を交えることなく3月9日に降伏した。被害はもっとも少なかったはずだが、その蘭領東インドで敗戦後、日本軍人がもっとも多く(225名)処刑された。
なぜか。
そのオランダの重刑主義についてジャワ攻略の最高司令官で、その後はジャワ軍政の最高責任者となった今村均将軍は『回顧録』にこう説明している。  
他の連合各国は、ともかく日本を打倒したという勝利の誇り、満足感をもっている。……しかるに オランダの場合は、終戦後英豪軍により取り戻された蘭印諸島を引き渡されたにすぎないから、直接日本軍の上にのしかかりこれを圧倒した優越感は遂に味わい得ないで終った。
自然、鬱血は散らず、溜飲は下らない。
この民族的物足らなさが、戦争犯罪軍事裁判の形の上に報復感情のはけ囗を見い出したのである。
かようにして被害の最も少なかった国が、最も残酷な処刑を行なったのである。
註3。 
緒戦における米英蘭軍の敗退にともない各地で独立運動は加速した。

 


2023/6/10 in Osaka